市営住宅、県営住宅の歴史

市営住宅、県営住宅の歴史に関してご紹介します。
公営住宅を建設した背景としては、戦災による、420万戸とも言われる住宅不足が戦後発生していました。そのため、公営住宅や今のUR都市機構の前身にあたる「日本住宅公団」が大量の住戸を供給するために、様々な工法の模索や設計の標準化、規格部品の開発を行いました。

初期公営住宅で代表的な建築物としては、横浜市営中村町共同住宅(1921年)、東京市営古石場住宅(1923年)、大阪市営下寺町アパート(1931年) 、大阪市営日東アパート(1933年) 、東京府営西巣鴨共同住宅(1931年)、三河島共同住宅(1932年)があります。
初期の集合住宅では鉄筋ブロック、鉄筋コンクリート造でした。


この頃にDK、つまりダイニング・キッチンの言葉が生まれました。公営住宅51C型」に代表されるような、標準設計という決められた型でつくられたのです」。51C型では、食べるところと寝るところを分けるという「食寝分離」の考え方が盛り込まれ、これは戦後の集合住宅の大きな特徴となりました。寝食の分離」、「親と子の就寝空間の分離」などのコンセプトを打ち出し、A・B・Cの3タイプの具体的な間取りがほとんどでした。

郊外型住宅ではさらに合理的で、低コストな工法が模索されています。コストを抑えつつ高層化するために、新しい構造駆体を試したり、あらかじめ工場で成形したプレキャスト・コンクリート材を手すりに採用したりしています。

しかし、1970年代後半から公営住宅の建設は減少に転じ、2000年ごろ以降、住宅供給を民間に委ねる動きが加速します。そのため、東京都では石原慎太郎の知事就任以来、新規建設ゼロがとなっています。都営住宅の新規建設ゼロが続いていますが、高層住宅への建て替えを進められています。